死ぬ自由なんかない

今月末に誕生予定だった我が家の第三子。



去る2010年2月17日、この世に生を受ける前に母の胎内で亡くなった。
妊娠9ヵ月。ちゃんと立派な男の子だった。



我が子が死んだ。




『男と女が出会う奇跡。


その2人が恋する奇跡。


そして愛し合う奇跡。


精子卵子が出会う奇跡。

五体満足で生まれる奇跡。

毎日を無事に生きれている奇跡。


大人になるまで成長した奇跡。


友と出会う奇跡。


恋をする奇跡。



愛し合う奇跡。』



まさに奇跡の人生。



太古から考えると全く奇跡の倍率でいま人は生きている。



自分の子。
血を分けた子が三人いたわけだ。
二人、死んだ。



この平和な世の中で。
戦火もなく銃の存在すら憎しみの感情すらしらないこの日本で我が子たちはこの世を去った。
きれいな気持ちのままで。



神様はおれを生かす。



長男壱晟(2001年02月14日)が生まれたときに『これで次の世代にバトンタッチをするんだな。おれの人生もおわりかな』と思った。



なのに神様は二男三男をあの世に連れておれを生かす。



神はおれに大きな絶望を与え

なにをしろというのかと思う。




これでは
人を憎むことも出来やしない。



人を陥れることも出来やしない。



ましてや絶望し自殺することも出来やしない。




天寿を全うしない限り
わが生に終わりがないのだ。



ただのんべんだらり生きてればいいってもんでもない。
手を抜いたら天国の子ども達に申し訳ない。



『達』だって。自分で言っていて有り得ない。



神よ、なんで2人もっていく



おれよりよっぽど価値ある人生を送る子どもだ。



なぜだ。
なぜだ。





妻の気持ち。


おれなんかの比にならないくらい自分の命を削られている。


そのナイフはひどいくらい鋭利だ。



彼女からしたらこの世は地獄だ。



でも生きていかなければならないのだ。



子ども達が生きかえるならば自分が代わりに死んでもいい。妻はそう思ってるはずだ。しかしその痛みだけを与えられて己は死ねないのだ。




自分のメシを食らうのだ。
長男の子育てをするのだ。
義母の老後を思うのだ。おれの面倒を見てるのだ。



すべてに疲れて
そしてお腹の傷を見るのだ。



この世にいない2人を思いだすのだ。


そして確かに存在した絆を感じるのだ。



生命体でない、人からしたらぼんやりしたものを確かなものとして感じるのだ。



感じるしかできない子育てだが


それでも子を思う母の気持ちはとても強いのだ。



ちょっとずれるが
虐待とかツラいニュースが世の中にはある。
その子が生きている事を前提にして親は虐待してるんだなと思う。
死んでる子に虐待してみればきっとわかるはずだ。
その虚しさに。その辛さに。
どんなに我が子を愛していたかを知るはずだ。




妻のおれなんか比じゃない辛さ。
おれはちっとも強くなんかないけど妻を支える。



この世を見渡すと生きてるとつらいことも多い。

つらいことがないなら平坦な道を選びたい?



『今までの人生で楽しかったことを返しますから我が子達を生きかえらしてください』

と思うことはできても、その楽しいことがあって夫婦は出会ったのだからなんて矛盾な発言だ。



だから



生きていくしかない。


生きて生きて


使命を果たして


生を終えて


そしてあの世で我が子たちと笑うのだ


だから


おれに



死ぬ自由なんかない。




天国の由堂(YOUDO)2008年10月29日逝去、理陽東(リヒト、light)2010年02月17日逝去に捧ぐ