大人の悲しみについて

一見タフに見える会社の営業部員が、俺に泣き言をいった。ツラいと。逃げたいと。
そいつはクレバーでハッタリがきき、プレゼンが上手な奴だ。
そして仕事は勝ち負けだと言っていた。
でも今まで生きてきてタフでかっこいい奴を俺は見たことがない。
学生の時に悩み事を一切、口にしない俺に「友達ならば、なんでも話せよ」と言ってくれた(ハッタリが効き、根っからの代理店向きな性格の)友達は逆に、その十年後に悩み事を誰にも言わず失踪した。
俺の性格は彼により変わった。悩みを他人に言えるようになった。
そもそも血の繋がりのない父親に思春期育てられた身としては、色々気を使ってしまい、なにか発言する度に、その人が喜びそうな事を言ってしまう。それが癖になってしまうのだ。
そうなると最後。人の喜びが自分の喜び、人の悲しみが自分の悲しみになる。
だから、友に悩みを話せと言われたあの日に自分の長らくの閉じた殻をぬけれた。
自分の意見を人に言えるようになった。それは何も怖いもののなかった子供時代に戻ったような感じだった。
そうそれで昨日、そいつを見ていて、こんなことが昔あったよと話した。ちょっとだけ顔が明るくなった気がした。
言語コミュニケーションは人間に与えられた唯一の特権であるが、「言語」は全て他人を意識して発するところから始まる。
自分であって自分でない場合も時にあるのだ。
比べて「行動」。これは本心が出てしまう。偽りのない自分が出る。
他人を知りたいなら、その人の行動を追えばいい。
自分を知りたいなら、行動したいことに耳を傾ければいい。
だから泣きたきゃ泣け。逃げたきゃ逃げろ。気が済むまで好きにすりゃいい。それで離れる人がいたらそれは運命だ。悩んだらすこしは動物ぽく生きればいい。そうする以外に頭でっかちになった大人の気を鎮める方法はないと思う。
それができないのが大人の悲しみでもあるが。そうしたい。
TedTak.au